実家に帰る

11月5日付

「よく泣く」

先日は父親の誕生日でおめでとうって電話をした。

ものの1分話したかどうかだけど、電話を切ってすこーしだけ目から涙が出た。

最近はちょこっとうるっと泣くことが多くて、なんかさっきもうるっとした。おかんとラインしてて。

元々とてもとんでとなく泣き虫。注射とか嫌で泣くことはなかった(寧ろすきだった)が、怒られたりして、悲しかったり悔しかったりするとすぐに涙が出る。小2からバレーボールやって毎日怒られてたこともあり、人の10倍いや100倍くらいは幼少期に泣いてる。

家で怒られた時は、外出ててってシクシクしてるとねこが膝の上乗ってくるから「お前はいい子だな〜〜...」ってこのシチュエーションでもよく泣いてた。

いま怒られる環境にはなくても、やっぱりちょこちょこ泣く。特にこの歳になってくると幼馴染のおじいちゃんが亡くなったりと死が物凄く間近になる。先月の無職の間は実家にいたが、おじいちゃんに久しぶりに会って弱ってってんな〜ってのを体感して、やべえ泣きそうってなった。

兎に角いつまでも泣き虫...なのはチョット年齢的に周りに見られては困るので、涙堪えられるようになりたいってお話です。

 

ART-SCHOOL

 わけわからんくらいにアートスクールのニーナの為にを聴いてる。生活を邪魔する余計な感情を上塗りし、隙間を埋めるように垂れ流してる。

「ぼんやりと ただ淡く 絶望的なその愛で」という詩が額縁を飛び出して描かれた絵画のように美しい。

紡がれた言葉の美しさと的確さ。絶望的な愛って本当にぼんやりと淡い気がするもんな。それだ!ってほどなのに、それだ!ってならないくらいにぼんやりとしてて、染み込まして生きてる。

この曲聴いてるとそのぼんやりに浸り込んで思考が止まる。わからないことを思考することは感情を伴ってマイナスにふれたり、かと思いきやプラスにふれたりで心電図並の不安定さなので疲れてしまう。

 

 11月8日付

「哲学を持つということ。」

哲学を持ちたい。唐突だが、藤原基央さんの何が好きかって彼には揺るぎない哲学があること。(かもしれない)

(かもしれない)の時点で私には哲学がない。考えきってない。こうやって文章にする事でよくわかる。

例えば小学生か中学生のころに道徳の授業だかでやった、あなたは公共の乗り物に優先席は必要だと思いますか?またその理由を述べて下さい。といった表題に対して、なんて答えたか覚えてない。

だが多分、「どっちでもいいな〜」とか「いま電車にもバスにも優先席はあるから必要っしょ」って思ってたと思う。

キチンと考えきってない考えでしかない。例えば優先席がなかったらどんなメリットがあって、どんなデメリットがあるだろうかを考えて最も自分の中で適切だと思う考えを記す必要があるはず。

所謂、論理的や感情的やで人を表現する時わたしは紛れもなく後者。

中学生になると小学生まで書いていた作文は小論文と名を変えて文章を綴る機会が設けられるようになったが、「小論文の書き方」と題された紙切れを渡され何となく紙に書いてある手順で書いて、何となく60点ぐらいを貰って、何がダメで-40点なのかもわからず何となく過ごしていたという事に気がつく。

そしてそれはめちゃくちゃ悔しいこと。

 

そんな事を踏まえて、兎にも角にも私には思考しきるという文化がなかった。絶望的な話なわけ。

そんなことを思うキッカケになったのはタバコのポイ捨てを見かけた時。

私はこの行動がとても嫌い。小さい頃から嫌い。タバコ一本ゴミ箱捨てられないなら吸うなよ、汚さないでお前だけの道じゃない。ってずっと思ってる。今思えばタバコは嫌いじゃないが吸う人に対して、なんか目を細めら気持ちが湧き上がるのは、その幼い頃から見かけてた街のタバコや、タバコを捨てる大人からの歪みだろう。どんな人でもそれだけで幻滅してしまうほどに嫌いだったわけだが、なぜか先日見た時は何とも思わなかった。と、言うのは嘘だが、どうでもよかった。その人は新しい職場の人だがどうでもよかった。幻滅もしなかった。その中で何故どうでもいいと思ったと言うと、きっとその人なりに哲学をもってやってるんだろうなと思った。その人は大人だ。理由もなくちゃポイ捨てなんてしないと思った。逆に理由がなくてポイ捨てしてんならそれはそれでクソだし、そんな人はそれこそどうでもいい。

私は少し変わった。

前までなら、絶対に悲しんだ。怒った。「何でそんなことするんだろう」「何でそんなことできるんだろう」って、何でもクソも無いこともある。そして嫌な行動に対して何でと思うことは無駄。大人になってしまってる以上、タダでさえちんちくりんの私でもこう思うのだから見てる人は見てるよ。

 

上記のことから行動は哲学を伴うと思った。社会的にマイナスな行動って言ってしまえば感情的なモノや快楽や楽が優位に立った時、大人であれば備わってるものが機能しない時に起こる。殺人や、馬鹿みたいにでかいエンジン音で信号無視するバイクや。

20歳を過ぎてから、なかなか子どものままで大人ってなんだ、私でもなれるのか、なれるきしねぇと思ってたけど、私なりに大人とは自らの行動に責任を持つ事だし、責任を持つとは自分の責任を持つ事。社会に出た以上、私は私の行動然り発言、言動には責任を持たなくてはならない。当たり前のことだが、私は自覚が足りなかった。わかってはいたが実際出来ていたかといえばノー。だ

大人を少しわかった。そして大人はかっこいい。日本では20歳になると成人として扱われるが、22歳のいま、私は20歳から22歳の間は大人(仮)、子どもの延長線上だった。

私も早く立派な大人になれるように、すべき事をまず考える。

 

2017年になったとき書き初めで覚悟と書いた。ぶっちゃけ覚悟なんか持てずに一年過ごしてしまったな。反省。

年の瀬が近いてきた事は、暦ではなく外の空気で感じる。手帳を買った。

今年は反省すべき事が沢山ある。いま少し思い返すだけであるのだから、それを来年に生かせるようにあと一ヶ月余り、反省と来年の目標を纏めよう。

 

11月10付

「 感じる事と考える事」

表題についてGoogle検索した。感じるとは今で考えるとは過去や未来。わかっていた事ではあるが、改めて記されてるものを読み自分の感覚と擦り合わせて腑に落ちた。

いくら大事な思考をしようとも目の前で何かが起こると其方のことを感じてしまうが故、いままで思考は断片的で考え切ることが出来ていなかったのでは無いかと推測。嫌でも感じてしまう事が多かった。だが感じることは時にメチャクチャ辛くてすぐ悲しくもなってた。

多感なのは良いと思うがこれに振り回されていては、大人には近づかないからまず出来なさすぎる思考を優先できるようになる。意識的に。

 

(エビ中のシンガロンシンガソングがめちゃくちゃ好きでずっと聞いてる。)

 

続く